ネギま
ーネギ鳥ネギ鳥ネギ鳥ネギー
こんなことを考えた。焼き鳥屋でネギまを食べていたときに。
ネギが来たら次に鳥が来るというのが物語なのではないだろうか。
個性というのはネギが来たから次は鳥を持ってこようというのを無意識でやることだけど、次に鳥を持ってこないといけないと思ってやると自分を自分で作った物語のうちに縛ってしまう。
ネギの次が豚肉でも、はたまた人参でもみかんであっても良いのに自分で作った規則性の中に取り込まれて鳥を持って来なければならなくなる。同一性というのはむしろ自分を縛って不自由にしていくものではないのか。
昔絵が嫌いだったけどなんの理由もなく今は好きになってても良いし、嫌いなままでも良い。
物語と個性、自己同一性みたいなものは似ているというか全て物語化、物語ることによって生まれる。
昨日の自分が今日の自分でなくても問題はない。昨日がa0で今日がa1であっても、b0かもしれない。昨日と今日に相互の関係はあれど同じ数列でないかもしれないし別に同じでなくても問題はない。もちろん同じであっても。
物語は好きだ。理屈が通っていてわかりやすいことも多い。だけど最近、どんな物語かわからないもの、なかなか理解しきれないものが好きだ。
現実は物語ではない気がしている。
物語であってもそれはそれで良いけど。
ガチャガチャまだ続いてます。
もしどこかで見かけたら回してみて。