画像の説明
ぱー
waimai
RisuPon
ぽ
メイ
あやちゃん

透明なVRでバクとホップを見つめる。

 

インスタントの、しかも湯すら沸かずに水道水をレンチンして、作った珈琲。

特に美味しいとも思わず、ただ作業を喉に流すための液体であるそれを飲み終わった猫の柄のコップに、空になった麦とホップの缶を入れてみるとスポッと入った。

 

それから何日経っても、そいつはそこにそうあり続けている。

自分が取り外さない限りそれはそのままだし、ごく当たり前なんだけど。

 

 

 

意識的にか無意識的にかそういった判別が出来ないくらい自分の部屋はごちゃごちゃと上記のような物と時間が堆積して、溢れている。

どこから手をつけていいか分からないその散らかった部屋を、夏休みの宿題みたいに放置して、ぼーっとやり過ごす。

 

ボーッと。

俺はボーッとしたい。ボーッとしたいのは、やらなきゃいけないことに溢れている時だ。無論、それをやることが現状の一番の解決方法なのは言わずもがな、しかし元来俺はボーッとしたい生き物ではなかったか、と思考を迷走させるくらいには、なかなかきてる。

全人類が突然一斉にボーッとし始めても俺にとっては不思議なことではない。

歩くのも手を動かすのもやめて、でも瞑想だとか黙想ほど厳格なものではなく、本当にただ何を見つめるともなく何かを見る、そういうボーッとするという行為をするのだ。

意識がどこかに行き、どこかにつながるかもしれない。(?)

だからVRのヘッドギアをつけた人たちが集団でいるのを見ると、「時代こえー」とか凡庸なことを思う半分、もう半分でなんだか非常に心が落ち着いてしまう。ここではないどこかに意識をつなげた人たち。

 

そして彼らに「何見てるんですか」或いは「どこにいるんですか」と声をかけながら近づいて、ヘッドギアを外すのだ。するとそこには何も写ってないのだ。

そういうこともあるかもしれない。

 

電車の中、みんな意識のやり場に困ってスマートフォンをいじりだす。彼らのスマホはシュワシュワと空気の中に消える、気化する、けれど彼らは何もないそこにまだじっと目を向けている。

 

そういうことでもいいかもしれない。

 

石が石であって、木が木であること。それを美しいと思えるならば、それらをいちいち美術館に置いてインスタレーションにしなくたっていい。ただ自分と木の関係があって、それが幸せなものであればそれでいい。経済も社会も利益も、価値すらもない、ただあなたと何かの関係が幸せならそれでいい。

 

壁に貼り付けられたカネコアヤノの眼球がこちらをじっと見ている。

でもカネコアヤノの眼はボーッとしていないな。強い意志を感じるし、だから眼球だけでジャケットにもMVにもなれるのだ。

俺の方がもしかしたら透明なVRヘッドギアをつけているだけなのかもしれない。

そういえばVRのヘッドギアをつけている集団にしたってもっと笑ったりワーワー言っていたりする。

でもやっぱりあの究極的に個人のフレームは恐ろしい。

考えが散漫とする。ボーッとしてるからか。

ボーッとしながら麦とホップと猫柄コップの合体形を見て、なぜこんなにもこいつは綺麗にここに収まってるんやろと考える。出会うべくして出会った感じがあるし、何らかの神秘的な意味を見出さずにいられない。

ちなみにここ最近『寝ても覚めても』を見たり読んだりしたせいで、麦って字を読む時、一瞬だけ「バク」と読んでしまう。バクとホップ。

 

 

満遍なく散らばった部屋はそのまま俺の脳内に違いなかった。バクと猫の合体形をはじめとする、偶然出来てしまった独特のシェイプを持ったオブジェクトたちは脳内の神秘に違いなかった。

 

 

今は7畳半のワンルームをそう思って見ているが、きっと外に出ても同じだ。

究極的個人のフレームを全世界に押し広げてしまう自分の方が、よっぽど恐ろしい気がし始めてきた。作業に戻ろう。机の周りのゴミを片付けよう。珈琲を入れよう。

 

コップ、コップ……

 

 

 

ハブト