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ぱー
waimai
RisuPon
ぽ
メイ
あやちゃん

存在しない「あなた」を必要としている

僕の捻じ曲がった性格は恐らく幼稚園の時に種が蒔かれ、小学生で発芽し、中学で急成長を遂げたのち高校で開花した結果形成されました。今は捻じ曲がりだらけのお花畑に居るのでまだ大丈夫ですが、中学や高校の時なんかはとりあえず早く人生終わらんかなと思うことがしばしばでした。詳しくは主観的には何とも言えないのでよくわからないです。

とりあえず辛すぎて、駅のホームとかでいろんな想像をしたりしてた時、思ったのは「誰か助けてくれないかなー」って事で。でも、その時の「誰か」ってヒーロー的な誰かではなくて、「自分一人のために」何かしてくれる人間だったと思います。だって「ヒーロー」って、全員を助けるじゃないですか。全員を助けて、みんなを幸せにするのがヒーローで、でも僕はその「みんな」が嫌いだったので(全員を嫌っているということではなく、概念としての「みんな」)、僕らが一律で全員今より幸せになったところで、相対的に僕が不幸であることに変わりはないし、それ以前に自分が劣等感やら諸々で落ち込んでいるのに、僕以外の人間を肯定されたら困るわけです。なぜなら捻じ曲がっているからです。

僕がそういう時に救いを求めてたのはたぶん音楽でした。

「みんな」に向けて歌った音楽はたくさんあります。みんなが陥るような困難を乗り越えるよう促すような、「負けないで」「一歩踏み出して」と励ましてくれるような歌は、いわば皆を助けてくれるヒーローです。

でも僕はそんなヒーローは必要としていなかったです。僕は「僕だけ」のために何かを歌ってくれる人を求めていました。でも、普通に考えてそんな人は存在しないはずです。

高校の時に一番聴いた曲

そんな時に聴き漁っていたのは、誰かのための歌ではなく、圧倒的に個人的で主観的な思いを歌った歌でした。悲しいとか、苦しいとか恥ずかしいとか、死ねとかそういう歌です。

彼ら彼女らが何のために歌っているのか、頭で考えてもよくわからなかったですが、僕にはなぜかそれが救いでした。もしかしたら「僕一人のために」歌ってくれているのではないかと思いました。だから、絶対に存在しないけどそういう人は確かに居るんだと思います。彼ら彼女らの伝えようとするメッセージではなくて、その存在自体に救われていた気がします。何かを直接言ってくる人間より、リアルな感情の方が信頼できたのかもしれません。とにかく、「悲しまないで」と言っている歌より「悲しくてたまらない!」という歌の方が僕は必要でした。

だからどうということはありません。でも、アートとかデザインとか、表現について語る時にそういうことを考えて、「誰かのため」って何だろうと疑問に思いました。デザインって、アートって何のためにあるんだろう、何のためというか、何であるんだろう。

 

2018/10/24  アツシ