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RisuPon
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メイ
あやちゃん

寿司食いたい

あらゆる会話とか議論において「それを言ったら終わり」みたいなことってあるじゃないですか。

 

なんの寿司ネタが好きかという議論において、「でも俺寿司よりラーメンの方が全然好きだわ」って言ったら終わりだし、

「ケースバイケース」とか「人それぞれ」って全てにおいて正しいけど、だから自分たちが何のために話しているのかが分からなくなる。この場面においてはそうだけど、まぁ大抵はケースバイケースっていう一番の最大公約数に落ち着いてしまうことがあって、というか自分が割とそうなんですが、それくらい僕らが普段話していることって部分的なことなんじゃないかと思うわけです(それも人によるかも知れないですが…)。

要は個別的なことから一般的なことの狭間で揺れているわけで、知性的になればなるほどその議論は自分の悩みとか、自分の関心事から遠ざかっていく。どんどん一般的になってゆく。それがどんなレベルであれ、視野を広げるということはある意味、景色の色んな細かい要素を捨象していくということだと思うので。

でもそういうのって場合によっては安心できることであって、所詮僕らは宇宙の塵だと自覚するようなことは逆にロマンがあるし、なんかよい。最近はそういう普遍的な「知る」ことの喜びみたいなものが分かってきて、高校までと比にならないくらい勉強している。自分がどんな世界に生きているか、外から見ることで始めて知ることができるのは、楽しい。

だから、「正しさ」って何だろうと、余計に思う。

寿司より全然たくさんの種類の料理を知っていれば、寿司の中でなくて「料理」の中で何が好きかを議論できる。でもそれは寿司を単なる「料理」の一つとしてカテゴライズする行為ですよね。さらに規模を広げれば、自分が生きている時間を「人生」という単位で一括りにすれば、そのひとかたまりを「良い人生」「悪い人生」みたいにレッテル貼りすることができる。昨日悪くて今日良くても、それは単なる人生という箱の中の話でしかない。何かあっても「何もない」とも言えるし、逆に何もなくても「何かある」と言える。意味ってそういうものだと思います。

人間として生きている身として、何が「正しい」のか?

こういう単純過ぎる疑問に関しても、答えを出したら終わる気がしますが、答えを出さないで楽しむ方法もあると思います。

「希望」を述べるならば、僕たちは寿司が単なる料理の一つであると知ったところで、寿司ネタによる味の違いがわからなくなるわけではないということです。知性の暴走を止めるために「身体」は存在するのかもしれません。

また、どうとでも言えるなら、どんどん変な人が増えてほしいと思います。視野を広げる時に、沢山の視野の広げ方が有ると良いと思います。そのために色んな人と話して、色んな(なるべく自分と遠い)事柄に関して知りたいと思います。それから、人間の細々としたところも好きです。多分、前述のような考え方を純粋に続けることができたら、全員がニヒリストになってしまうから、それでは社会が成り立たないから、人間は目の前のことでいっぱいになってしまうようにキャパが設定されているんだと思います。

目の前のことに感情的になれることは素敵だと思うので、それでいいと思います。

あと、このブログが素敵なので読んでほしいなと思います。

http://nagairei.hateblo.jp/entry/2018/02/22/155157

おやすみなさい。

 

2018/09/26  アツシ