画像の説明
ぱー
waimai
RisuPon
ぽ
メイ
あやちゃん

72090413124

デジタル時計の数字が偶然3.11だったり9.11だったりすると、そのことを考えてしまう。頭で考え込むというより、言葉とかで考え得るレイヤーの下をその3.11的な諸々が流れて行くような感じで、しばらくあとを引いて僕の中に残り続ける。

直接そういうニュースとかドキュメンタリーを観るよりそうした偶然の方が深い何かを感じる気がする。全く関係ないただの数字なのに、不思議な話だ。

 

さて、今年の芸祭で「ただの数字」を展示した。これはあるサイトからコピペした「世界人口」である。

 

実はコピペする際のミスでなぜか桁が一つ多くなってしまっている。この数字だと人口は約720億だが、正しくは(?)約72億人である(何が「正しい」のかは置いておいて僕はこのミスも何かしら重要な意味があるのではないかと思った)。

 

時計の数字からそれを思い起こすのは私たちの「経験」を前提としたものかもしれないが、ではその「数字」が先に提示され、その意味があとで分かるという順序であったらどうか。

「世界人口」において、鑑賞者ははじめに数字を見せられ、「なんだこの数字」となって、タイトルを読むことで初めてそれが「世界人口」であったことを知る。

この時「鑑賞者」が何を感じるか、それがこの作品の問題提起である。もしかしたら私たちは数字を「数値」や「量」以外の「何か」として見ている場合があるのかもしれない。数字に限らず、何か意味を持って立ち現れる記号は、それが単なるメディアではなく対象物として認識された時、不思議な存在感を放つように思える。

とりわけ、「それがなんなのか」という問いへのレスポンスとして「意味」が提示された時、その一連の経験を通じて鑑賞者が学ぶのはむしろその「数字」自体の内包する見えないエネルギーのようなものなのではないか。

 

「世界人口」を見た人がこんなことを言っていた。

 

「これさ、一気にこの数字が”0”になったら面白くない?」

 

その感覚でこの作品を見てもらえたのなら、とりあえずはやった意味があったかな、と思った。

 

2018/10/31 アツシ