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ぱー
waimai
RisuPon
ぽ
メイ
あやちゃん

季節世界

 

16時ごろ、明日から始まる登校に備え、定期を購入するべく外に出ると肌寒くて、あ、もう夏終わったんだ、早。と思った。夏の終わりは、あまりにも終わりなので、わかりやすい。お祭りのために飾られた提灯や、出店、交通禁止のカラーコーンが撤去されたあとの神社とかと同じだと思う。秋は夏が片付けられると発生する。残暑は多分、金魚を持ち帰るためにもらえる特殊なビニールの袋(なんていうんだろ)のカラフルな止め紐が、道の端に落ちているようなものに過ぎない。それにしても随分律儀に、9月に入った途端、秋になったなと思う。神様は今年から季節の切り替えスイッチをつまみを回して調整するやつからオンオフ式のやつに変えたのかもしれない。もしくは今年から季節変更担当の人が新しい人に変わったのかもしれない。9月もそれなりに暑さが残るような気がしてたのに、というか例年残暑という言葉を聞いていた気がしてたのに、気のせいだったのかな。あれ、こんなんだったっけ、と思うとき、世界線が気づかないうちに一個ズレたような感覚を覚えることがある。画面をスワイプするよりも簡単に世界線はズレそうだと思う。ため息ついた瞬間とか、瞬きした瞬間とか、電車降りた瞬間とか。句読点を打った瞬間とか。

夏があまりにも「いる」過ぎて、秋は、ずっといた人が急にいなくなっただけの期間みたいになる。冬には誰もいなくなって、春にはまたあの人の気配がする。ただ太陽に近いだけのことが、すべての彩度を必要以上にあげて輪郭はぼやけさせることに対して、一切為す術がない。あの悪目立ちする朝も、過度に寡黙な夜も、すべて繰り返しの単位だとするなら、街にも、公園にも、一人の人間にも、宇宙全体にも、もしかしたら季節があるかもしれない。

ものが続いていくということは、すごろくとか人生ゲームみたいにスタートからゴールへ進んで行くものではなくて、モノポリーの盤面とか、よくだまし絵のモチーフになる登り続ける階段とかが近いのかもしれない。これの終わりは道がなくなったらじゃなくて、進んでいる人が止まったらおわり。ぼくらは工業製品ではないし、何かに使用されるために生み出されたわけではないから、ゴールなんて終わりの形はない。

何回もおなじようなもののそばを通り過ぎて、その都度、それが朝だったり、夜だったり、近くで見れたり、遠くから見れたり、誰かと見たり、ひとりで見たりする。地球が太陽の周りを周りながら自分も回って、地球のまわりには月が回っているように、人も自分の階段を登りながら、この階段自体ももっとおおきな階段を登り続けていて、その周りをまた何かが登り続けている。それが多分何重にも複雑に重なって世界は出来ている。

んじゃないかなと夏がいなくなった道を歩きながら思いました。
夕飯に食べた秋刀魚がおいしかったです。