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幸せの経済フォーラム ルポ

しあわせの経済 国際フォーラムは、11/9,10の二日間に渡るイベントだった。

当初は卒制の資料としてこれを書いていたのだが、途中から自分の意見も相当紛れ込んでしまい、ゴールデンレコードでシェアしたくなってしまい、結果長い長いルポを載せます。

読んでくれる人は今からありがとう。エンジョイ!

 

しあわせの経済フォーラム2019

ローカルな文化、ビジネス、つながり、、
現代社会の経済による社会・政治問題や環境問題に対して、オルタナティブを模索しているたくさんの人たちの話。

A-1 「地域文化の再生:江戸時代と先住民文化から学ぶ」
ここでは主に2つのことが語られていた。沖縄における染色とその周辺の文化、そして先住民の人たちの価値観についてだった。
最初に江戸文化研究家の田中優子さんが、江戸時代におけるグローバライゼーション、つまり外から入ってくるプロダクトや素材をそのまま売ったり加工するのではなく、日本の土という媒介物を通して、自分たちの土壌でなにができるのか、ということを江戸の人たちは考えていたらしいという話があった。木綿を育てるにはどうしたら良いのか、、イワシが実は発酵すると良い肥料になることを発見したり、とか。ちなみに江戸時代の人々は、宗教にさほど興味・執着がなく、その代わりに様々なことに対して常に疑問を持っていて例えば「なぜ日本の学問ではなく輸入されたものを取り扱うのか」。そこから古事記の研究に走る者や、「アムステルダムの学問面白いよね」と言って開国を促した者など、、、様々な人種によって実現される多様性というものはなかったけれど、日本人の中には確実に多様性があったように思う。
その後今日のハイライトとも言える言葉が、先住民族のドキュメンタリー作家・ダンサーの亭田 歩さんからいくつも出た。
「全ての生命は未来のためにある」
そして
「主を求めず 主の求めるところを求めよ」
つまり、誰か1人や1つのイデオロギーを祭り上げて再現するのではなく、それらが向いた方向、掲げた理念こそを、伝え追求していかなければならないというのである。
これは全く今の社会でも言えて、尊敬する哲学者、政治家(令和の山本太郎さんとか)をまるっきり信じ込んだり全肯定するのではなく、彼ら彼女らが向いている方向を見定めて、自分の立場を構築しないとだよね。
あと同じ亭田さんが今回のフォーラム全体のテーマ「LessグローバルMoreローカル」みたいなことから少し違った角度で言っていたのは、グローバルもローカルも実は結構近しい方向を向いているんじゃないかということ。なるほど確かにグローバルvsローカルほどの、二項対立的な図式には違和感があったけれども、その次元での考え方があったとは。それも先住民族の人たちの思想として。2つ(かそれ以上)のイデオロギーが入れ替わり立ち替わり栄えては沈みの繰り返しをする中で、その振れ幅をできるだけ小さくしましょう、と言うのが多くの民族の人たちの考え方らしい。それって確かに実現されれば今の世の中と180度違うよね。保守とリベラルの2つで、国が真っ二つに割れてしまうような事態が、イギリスでも起こったし、香港にも見られるし、日本にもきっと近いものがある。極端に違う思想を持っているから互いに憎しみ合うし、それを解くための話し合いの場というのも、ことごとく消え失せた(場合によっては政府が取り上げてしまった)。
もう私どんだけ文化人類学好きだよ、という感じだが、もう1つ亭田さんの言っていたことで、「国」という概念が先住民族の人たちには伝わらなかったという話があった。私たち、いわゆる文明人は、境界線で囲われた領土を国、と理解しているが、彼にとって国(のようなもの)は自分たちが移動してきた「足跡」だと言うそうだ。固定的な国への違和感は、人は移動するもの、と言う遊牧民的な生活様式からくるものだと思うのだが、しかしこれが農耕民族の日本人に全く通じるものがないかというと、そんなことはなかった。江戸文化研究家の田中優子さんによると、江戸の人にとっても、ローカルとグローバルはあったが、「国」という概念はなかったそうな。島国の不思議。そしてその流動的な「国」の定義に乗っ取るとつまり、もし外国の人が日本に居たら、彼らは日本の一部でもあるし、日本は彼らの中にもある。あなたや私が韓国に行けば、私たちは韓国の一部になるし、韓国は私たちの中にも入ってくる。それってなんて豊かなんだろう。
最初の講義では、今でもここでもないところの人達の価値観に、驚かされたりうっとりしたりのセッションでした。
ちなみにお昼は、様々な取り組みをしているグループ(なので通常のイベントに比べ、ポスターリーフレットなどの文字情報量がとてつもなく多い)のブースが立ち並ぶ中から選んで購入。吉祥寺のタイヒバンさんの「すごい牛丼」(え?ここで牛肉ってことは相当こだわりの、、)やビーガン和風弁当を横目で見ながら、パン屋さんで「玄米甘酒酵母ドーナッツ」という優しい生物たちをみな集めたような粉物を買い、そして長蛇の列が目に入った「こどもレストラン」でお弁当を求めた。「こどもレストラン」はどうやら逗子で開かれている子どもの料理教室&レストランイベントらしく、料理を習ってつくった後に、お客さんのために同じものを作って、サーブして、後片付けをして、と擬似的な飲食店営業が体験できるそう。横浜エリアでは少し知られているようで、予約のお客さんもいたりして、私が並んでいる間に、メインのお肉とご飯が完売してしまった。ご飯は少し惜しかったが、先ほど炭水化物はゲットしたし、お肉欲はこのようなカンファレンスではさほど湧かないので、なくてむしろありがたかった(美味しかったろうけど、、、)。今日が2日目のリホは、先ほどのパン屋で蕎麦の実バーグのサンドイッチを買っていた。レタスが肉厚で実に美味しそうだった。
他のブースでは、武蔵野大学のゼミで養蜂をしている学生3人が蜂蜜を売っていたり、スローフード団体がコーヒーやスパイスを販売していたり… 都心から外れた緑の多いところにある大学のキャンパスってユートピア感があるよね、と一緒に行っていたICUのリホと話していたけれど、このお店のラインナップや人々の賑わいを見ていると、その印象が更に強まった。
Aの講演で触れられていた二極化に対するオルタナティブを取り上げていたのが、だB-1 「しあわせ×あいだ×ローカル」 だった。高橋源一郎さんが出ていたため、より環境問題にフォーカスした分科会を泣く泣く捨てて聴きに行った。
さて「しあわせ×あいだ×ローカル」では、建築のキャリアからコミュニティデザインに転じた山崎亮さん、午前中に引き続き田中優子さんに司会の辻信一さん、そして一番パブリシティーのある評論家の高橋源一郎さんが登壇していた。それぞれ自分の分野で見つけた「あいだ」を、思いつきで話したり、他の人と繋げたりして話を展開していっていた。
いきなり面白かったのは、田中さんの紹介してくれた江戸の人のアイデンティティーの概念。
「古今狂歌袋」などの歌を扱った資料を見せながら、昔の人は1人の人が複数の名前とペルソナを持っていた、という事実を告げられた。
ある人はタバコ入れ箱屋の主人であると同時に、浮世絵師であり、歌人であり、、しかも歌人の名前が「門限面倒」さんだったりとかして、その直球なユーモアセンスに驚かされたり。
つまり、自分の生業としての仕事以外の趣味・才能に対して、もう1人の自分を作り上げて名前をあげるということ。どうやら「家」(武家や農家など自分の家業)は、今以上に人間関係などガチガチでストレスフルな環境だったのだが、それでも楽しく気楽に生きるにはどうしたら良いのかということで、別世(社・連・組などの同好会)にも片足を突っ込むということがあったようだ。このように様々な仕事外のコミュニティがあり、そこでしかも普段と少し違う自分でいられたら。それぞれに名前をと言うと、なんだか多重人格ぽさがあって不気味かもしれないが、自分の中にたくさんの異なった自分がいる、と言うことを受け入れてくれる社会ってきっと、うんと楽で、捜索する際に無駄な心配などもないのだろうと思う。
次にマイクが渡ったのはコミュニティデザインの山崎亮さん。彼の話は私の卒制にドンピシャだったので、ヒントをたくさん頂き、勝手に感謝しております。彼がしているのは、インフラの整備や新しい建築が発つ際に、行政や建築会社と、市民をつなげるようなこと。彼はそもそも子供の頃「縁側」という自由で曖昧な場所に惹かれてランドスケープデザインを学んだり、建築をやったりしていたのだが、結局場所を作るよりも、人と何かをすることが好きだということに気づき、ワークショップに目覚めたという人だ。彼曰く、コミュニティデザイナーの役割は、人と人の間に新しい価値観を生み出すこと。市民同士が対話をする中で、隠れたニーズが出てきたり、新しい発想へと繋がったりするそうだ。それにはただ取り留めもなく話してもらうのではなく、敢えてぶっ飛んだ変な問いを投げるとみんな考えてくれるそうだ。例えば新しく図書館ができるなら「同時におでん屋でもあって、ステージがあって、プールだったりもしたらどうだろう??」(私自作)と言われたら、「そんなバカな」と言いつつも、「ここでは何を言っても良いんだ」という安心感と子供のような発想力が生まれる。そもそも信頼できる人にしか本音では話せない、ということがあるのならば、山崎さんのような人は何を決めるにあたっても、どんな現場にも必要なのではないか。色々な人たちの間に入って、ワークショップをすることによって、時間的だったり空間的だったりする余白を作ること。それもただ山崎さんの話が上手いということだけなんかではなく、彼は少し尊敬する哲学者、エマソン(1803-1882)について触れていた。それまでの時代に磨き上げられてきた近代合理性(物事を論じる時、理性のみで語れという感じ)に対してエマソンは、人間の理性の中には、感性やら何やら他の要素もたくさんあり、切り離して語ることはできないという主張をした。超越主義という、若干スピリチュアルな考え方で(東洋思想に通じる部分も多い)、自分たちが理想とすることはきっと共通していて、大霊という神的なものが、みんなの中に等しく入っているから、自分のこと信じなさい、という教え(エマソンは牧師でもあった)だ。先ほどの先住民の人たちと通じるものがある。どのような主義主張を持っていても、皆根本的には同じ方向を向いているのだから、本当は通じ合えないはずがない。一緒に良い中間地点を決めよう、というなんだか今言われると楽観的すぎるよ、というような言葉なのだが、これを知っているのと知らないのとでは、心の持ちようが違う気もする。
さて、高橋源一郎さんである。彼は思いついた「あいだ」の話をざっくばらんにした。Kindleで電子書籍を読んでいると、「ページをめくる」行為などがなく、そのワンクッションがないとものをうまく考えられないという話、人間は自分の意識と肉体ではなく、それまでの年月の蓄積による記憶であるという話。そして、自分が個人的にやっている「あいだ」を作る行為としての読書。彼は特定秘密保護法案が問題となった際に、草案の文章を印刷して、毎日三回読んでいたそう。なんでかって読んで自分が参加していないものに、賛成も反対もできないよという立場だからだ。それが度を増して、憲法改正が気になった時には、世界中の憲法33個を集め、それぞれ3回も読んだという。それで日本と他国との構造の違いが分かったというから、彼は超一流の批評家だ。NPOからの署名集めメールの短い文章を読んで、ホイホイと署名してしまう私はアウトだ、、結局人によって単純化された言葉には、賛成か反対か、白か黒か、ということしか書いていなかったりする。そしてそれは憎悪の促進剤になってしまう時がある。原文と対峙して、隙を見つけて介入する。「読んで溶かす」という風に高橋さんは表現していた。
最後にのぞいた分科会は、C-4 地域自立型循環エネルギーとローカリゼーション。こちらはエネルギー面で、たくさんの化石燃料や原子力発電からできたエネルギーを生活に使うのではなく、オルタナティブなエネルギー源、ということで飲食店の廃油で走る車で地球を何周もした経験のある山田周生さんや、パーマカルチャー(パーマカルチャーについてはこら〜〜http://pccj.jp/)を暮らしの中で実践している四井真治さんなどなどたくさんのゲストがいた。彼らの話の中で結構ショックだったのは、日本人は1人あたり約15万円を化石燃料へのエネルギー補助金として税金から払っているという事実。それで再生可能エネルギーと並べると安く見えたのかぁ。その補助金が風力や太陽光に当てられたら、ものの数年で再生可能エネルギー大国になってCO2もめちゃめちゃ削減できると思ふ。
もう1つ、より喜ばしい言葉があった。本当の豊かさ・理想は自分の中にある。お金で販売されているものを取り戻して、それを自分で作る過程を楽しむ。
ローカライゼーションとはきっと、大量生産のモノも情報もルールも与えられるだけの状態から、DIYでも良いから自分たちで考えたモノやコトや関係を作っていくことなんじゃないかなと思った。大きな国の政治からは逃れられないけれど、小さくて新しい民主主義がたくさんあれば、大きな政治もきっと変わるはずだ。
11.11.2019

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