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RisuPon
ぽ
メイ
あやちゃん

「う」まで発音した君に、私に、それぞれの

こんばんは。ついさっきバイトやめてきました。塾講師のバイトをしていました。最後の国語の授業をして、「さようなら」って、今日は「さよなら」じゃなくて、ちゃんと「う」まで発音する「さようなら」で、教室を出た瞬間に両手がガタガタ震えて止まらなかった。悲しくもないし息もゆっくりなのに落ち着かなくて、ああ弛緩と緊張が同じ密度で拮抗して、身体の中でゼロになっている。瞳孔が開いたまま、自転車でずっと夜道をさまよっていたが、まだやっている喫茶店でコーヒーを飲んだらやっと帰る気になって今は家。スーツを脱ぎ散らかしたまま、打っている。

先週の土曜日、渋谷の車道で転んで、その時落としたスマートフォンが車にひかれてぺしゃんこになってしまったゆえ、電話番号もLINEも使えないというか消えた。だから私が公衆電話から私の電話番号にかけても「この電話番号は現在使われておりません。」な訳で、変なの、私はここにいるのに、ちょっと死んだ気分になっている。やめた塾には行くことができないし壊れた電話は繋がりようがないから、もう本当にこれっきりだ、という実感が、死んだ気分にさせる。今まで「選べたけれど選ばなかった」パターンが多かった中で、たぶん初めての「もう選ぶことができない」だ、ただ一択しかないことは、こんなにも絶望を感じるのか。

私はすぐやめてしまう人間だ。めんどくさそうな雰囲気が漂ったらスッと足を抜く、逃げる、縁を切る、白紙にする、でもそれは、また戻りたければ戻れる可能性をみていたからできたのかもしれない。でも今回は、私がどれだけ望もうと続きは絶対ない。前の前、ご飯屋のバイトをしていた時は、そこにこれからも持続しそうな関係性が作られていたが、塾講師はそうはいかない、規則上どこまでも他人との関係性は清潔であり、「講師」と「生徒」という役割からはみ出ることは許されない。やめてしまった今、関わりがあった人間と会うことはもうないだろう。おしまいなのだ。やめようと思ってやめたはずなのに、やめるということは、「本当のおしまい」は、こういうことなんだなと、何かの始まりにはならない「さようなら」なんだと、突きつけられるように知った。

考えたくもないけれど、これから「本当のおしまい」がもっと起こるだろう。ああいやだ。ぺしゃんこになったスマホ、鳴かなくなったセミ、名前を知らない店はひとつ、ふたつ、と潰れて、いつか私も死んでいく。死んだものは、動かない、かたくて冷たくて、もう流動がない、何も生み出さない。結局生きてる時しか生きれない。死ぬという地点は、もうそこからどこへもいけないらしい、腹がたつほど、生きている時しか手を打てない、死にかけでもまだ生きている、死んだら死しかないけれど、生きていたら死ぬ真似だってできるから。いろいろなことに対して、まだ死なせてはいけない。いけないな。

塾講師、スーツは窮屈でパンプスもちょっと痛くて、大変だったし、でも授業は本当に楽しかったな。教える側になって初めて、国語のテキストというものは素晴らしい文章の宝庫だということに気づき、驚いた。鷲田清一、向田邦子、小川洋子、受験生の時は問題を解くのに必死でそれどころではなかったけれど、おそらく編集者は意図を持って文章を選んでいる。文章を読むたびに空想があふれて、こぼさないように頭の中でメモを取っていた。1月に公演した、「みみをかして」というひとり芝居も、そういえば発想した場所は塾だった。

明日は美容室に明るく髪を染めに行く。その次の日には、新しい電話番号の、新しいスマホが届いている。楽しみだ。私は少しずつ変わっていく。でも「さようなら」の続きはこない。そういうことを考えるとひりひりするのでやめる。

 

uo 2019.09.25

 

p.s.「みみをかして」の当日パンフレットに記した文章を載せます。

週2で、塾講師をしています。授業をしていて一番楽しい科目は、昔ちょっと得意だった国語。特に教科書に載る文章を読むのが楽しみで、国語の日だけは少し早く教室に出向くことさえできます。中学・高校受験用の問題集は、特に読みがいがあることは発見でした。だって、小説や随筆のおそらくクライマックスと思われる部分が、受験用にと7分程度に切りそろえられ、ズラリと並んでいるのです。まるでケーキの飾りの果物だけをつまむバイキングのような贅沢さです。また、編集者の「どうせ解かせるなら良い文章を読ませたい」という熱い思いが文のセレクトから伺うことができ、文章の質も申し分ありません。
2018年12月28日、その日授業で扱った論説文は、人間の身体加工文化について書かれたものでした。身体加工とは例えば、ピアスやタトゥ、抜歯といったものです。タトゥについては紀元前一千年前まで遡ることができ、人類の文明の始まりと共にあったのだと考えられます。この文化が今も廃れずにあり続ける理由として、筆者はおおよそこんなことを述べていました。「身体加工とは、何にでもなれる不安定な自分という存在を、一つの何かに固定する技術である。人間は自分が自分であると確かめずには生きていけないのだ」
手帳に書きつけたあと、しばらく数日はそのことについて考えていました。身体加工によってできた過剰と不足にとどまらず、全てのものごとの「でこぼこ」についてです。私も、故意に自分に作ったでこぼこでも、元から備わっていたでこぼこでも、それを通常ではないと認めた上で大事にすることがあります。そこに自分を見出したりします。であるならば、私が宿るのはそこなのでしょうか。あなた自身を指差してと言われたら、私は頭部や胸を指差さずに、そのでこぼこを指差すのでしょうか。