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ぱー
waimai
RisuPon
ぽ
メイ
あやちゃん

おおなみ、こなみ

1 身を委ねて
週5日働いて2日休む、が一応一週間の生活リズムとしてあるんだけど、最近は気が急きすぎているのか、春休みのせいなのか、いつ休めばいいのか分からなくなってしまい曜日感覚がぐちゃぐちゃです。体感的に2日でやることを1日でやっているので、もう一週間経ったかしらとカレンダーを見やったらまだ水曜だった、とか。4日ぐらい前にかなり忙しくて楽しい日があって、でもその日を過ぎたらぽっきり折れてしまって、丸一日寝込んでいた。私はジェットコースターが好きなんだけど、今まで見えなかったジェットコースターの楽しくなさにも、急に気がついてしまったみたいな唐突さで。

昨日の夜に友人と遊んだら(私たちの遊びは少し遠い街に行ってご飯屋に入る程度なんだけど)、そのスローな時間があんまり楽し過ぎて、あんまり心地よ過ぎて帰りたくなかった。帰りたくない、今日は本当に家に帰りたくない、って駄々をこねてたら涙が出そうになった。家に帰ったらあのスピードに戻ってしまう、あの何もない空間に飲まれてしまう、それは好きでやっているはずなのに、やっぱりどこか苦しい。

部屋を今年になって改造した。ロフト付きのワンルームなんだけど、ワンルームの方からものを全部掃けさせて何もない空間にした。生活はほぼロフトでしている。何もない空間は私にとって神聖な場所になった。そこには何も持ち込まないで、持ち込んだとしても台本だけで、自分の声と身体の動きだけがある。

山手線のどこかの駅で、握手していた手がほぐれて、さよならの時間が来てしまう。友だちの背中が雑踏に消えていく。見送って間も無くガッタンと電車が動く、電車の速度は、今の自分のスピードに似ていると思う、焦っている、焦りすぎだとも思う、ちょっと苦しくもある、でもこれが心地よいから、今はこのスピードを選んでいる。

 

2 初めて演劇ワークショップに行ってきた
初めて演劇のワークショップ(以下,ws)に行ってきた。役者オーディションを兼ねたものだったけれどそっちの方は受けないつもりだった。私の目当てはwsだったので。外部の演劇wsってどんなことをするのか興味があったし、オーディションの雰囲気も知りたかったし、気になる劇作家と演出家さんだったので彼女らにあってみたかった。
……のつもりだったけれど、wsのみ受けに来た人も皆と同じことをしてもらう方針だったようで、思いがけないことだけど、私も台本を読めることになった。三時間ぐらいで解散した。いい時間だった。

まず、読んだ台本が面白く、色々な発見があった。
私は形式から戯曲を書き始めるのでなんとなく戯曲が角ばっていて(まだ書籍から抜け出せない)、コンセプトや視覚的なおもしろさを重視してしまう。でもその時読んだそれは役者のために作られた戯曲という感じがして、演劇という媒体とよく馴染んでいるように感じた。ストーリーが一ページ、一ページごとにくるくる変わって、物語に満ちる感情の激しい流れにさらわれてしまうようだった。あと取り扱う事象の「強さ」に負けない筆力に舌を巻いた。強い事象(例えば暴力、死、性、戦争)は極端な話、作家の力なくしてもそれだけで感情が生まれてしまうので、取り扱いが難しい。私はまだ力がないので手を出したことがなかったけれど、初めてやってみようかな、と思った。勇気をもらったんだと思う。今の私なら、多分、書ける。大変だと思うけれど、やってみよう。

演者について。いい演者ってなんだと思う? うまいヘたで演者を分けるのはナンセンスだと前までは思ってきたけれど、うまい演者はやっぱりいる。そしてうまい演者は総じていい演者で、いい演者が上手くなるんだと思う。でも、いい演者って何によって決まるんだろうか。適正と感情理解と自己コントロール能力の組み合わせだろうか。一人圧倒的にうまい子がいて、肩と肘の使い方にメロメロになってしまったので、関節の使い方だろうか。あ、それは自己コントロールに入るのか。私も台本を読みながら省みてしまう。自己コントロールの甘さに未熟さを感じる。感情が一瞬で振り切れてしまう癖がなおらないの、よくないな。
台本を読む同世代をみながら、私も台本を読みながら、帰りの電車に揺られながら、今一緒にやってる人たちのことを考えていた。いくつかの公演を思い出して、その指づかい、声色と抑揚たるや、笑ってしまうぐらい良い人に囲まれているなと思った。

 

3 マツ
11月からデグーという小動物を飼っている。

アンデス生まれのねずみで、人懐っこく、心が滅茶滅茶になるほどかわいい。 本名は「松屋」で愛称は「マツ」。もっとかわいい名前にするつもりだったのに、友人がちゃっかり松屋と名付けてしまった。しかしどういうことであろうか、今ではそれがしっくりきている事態。

動物がいるというのは本当にいい。精神が荒れている時に助けて欲しくて飼い始めてしまったのだけど、実際助けられて、かなり安定した生活を送れるようになった。つらい時はマツがご飯をたべるのを見るだけでだいぶ癒されるし、柔らかな毛を撫でると幸せな気分になる。長生きしてほしい。

自分とは違う生き物が、自分とは違う意志を持って、その身体を動かしていることに感動する。いつかどこかの教授が、「作品が動くことはそれだけで価値がある」と言っていて、それがすごい分かる。動くということはすごい。私とは違う生き物なのに、エネルギーが発生していて、命がある。私ではないものが、私を認識して、勝手に生きている。どうして。どうしてこんなに感動するんだろう。

 

4 マツ2
マツを二度危ない状態にしてしまったことがある。一度は栄養失調、二度目は低体温で病院に行った。飼育環境の変化のストレスで食欲がかなり落ちてしまった時は、かわいそうなぐらいげっそり、ぐったりしてしまった。うっかり部屋のエアコンを切って外出してしまった時は、体がかなり冷たくなってしまった。目の前で消えかかろうとしている命が怖くて、自分が愚かすぎて、後悔と不安で混乱した。治療を受けたマツは、その2度とも、持ちこたえてくれた。ありがとう、本当に。

嫌がっているのに撫でるのをやめなかったら、すごい顎の力で指を噛まれた時がある。傷は深くて出血が止まらなくて、何日もズンズンと痛かった。傷はふさがっていったけれど、でも傷を見るたび胸が痛んだ。マツに噛まれた。

そこには、マツのことを別な生き物だと認識しながら、同じ自分だと思っていた自分がいた。マツは可愛くて、やさしくて、私に懐いている生き物だと思っていた。でも違うのだ、ストレスや温度の変化で死んでしまうし、嫌なことがあれば噛む生き物でもあるのだ。なんという思い違いをしていたのだろうか。死んでしまいそうになるまで、噛まれるまで、何にもわかっていなかった。

私は子どもをうめないと思う。子どもを育てられないと思う。いや、子どもは好きなんだけど、自分の子どもに対して、マツと同じような思い違いをしてしまいそうだから。

自分から生まれた人間は自分ではないのだという。信じられない。普通、自分から出てくる人間は自分なのではないのですか。違うのか。私ではないのか。私ではない生き物なのか。世の中の母親たちは、そのことに驚いただろうか。私がこんなに手をかけても、私がいなくては生きていけないのに、彼が私ではないことに、絶望しなかっただろうか。

 

 

鮃  2019.02.08