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ぱー
waimai
RisuPon
ぽ
メイ
あやちゃん

インターネット雑記

・卒制のタイトル決まった。

Intangible You

in Tangible World

口に出す。

「インタンジブルユー イン タンジブルワールド」

有形の世界の無形のあなた。

 

・デザイン情報学科に入学してまず叩き込まれる「タンジブル」「インタンジブル」の授業は今もあるんだろうか。

tagは触れること、ibleはできる、だからタンジブルは「触れられる」、インタンジブルは「触れることのできない」と訳される。

その授業では、物質空間の制限がないインタンジブルなものの可能性について話されていた。人間のネットワークに興味があったので共感したし、教授が強烈だったのも手伝って、今でもくっきりと脳裏に焼き付いている。その授業が決定打となり、私の脳みそには『インタンジブル>タンジブル』という公式がインストールされることになった。

 

・インタンジブルの可能性を信じている。SNS、仮想空間、ライブストリーミング、インターネットマーケティング。

スマホの登場で、本当にいろんなことができるようになった。起業家もスマホ一台あれば仕事ができると言う。インスタで仕事をもらう人がいる。スマホでなんでも済むから物質の断捨離が流行る。私服の制服化、時短料理、代行サービス、時間を買えるようになり、前よりずっと身軽に生きることが可能になった。私もできるだけ身軽になりたかったから、いつもここではないどこかへ行きたかったから、時代に合う性格してるなと思った。暇さえあれば家のモノを捨てた。炊飯器を捨て、カメラも重いから捨て、持っていた本も半分以上捨て、服もゴミ袋xつぶん捨てた。

というか私はずっとモノが怖い。怖いから作れなかった。特に自分の背より大きいもの、ベニヤ板なんかもうめちゃくちゃに怖かった。どこかでモノの持つ情報量の多さを知っている。その手に負えなさが怖かった。だから媒体には音声や写真や映像を好んで使用した。

 

・先週の金曜は本当に大切なことを学んだ気がした。大それたことではないけれど、クィアアイの2話を観て、デジタルミニマリスト(カル・ニューポート)を読んだ。そこで『インタンジブル>タンジブル』を言い訳に、人間として生きる上で大事なことをサボっていたのではないかと、初めて「モノが怖い」自分に疑問を持った。

私は22年間しか生きていないけれど、スマホがこれ以上普及するとは生活に組み込まれていくとは、誰も想像できなかったのではと思う(ジョブズは電話とipodを二台持ち歩かなくても済むようにと作ったらしいし)。そして物質のミニマリズムの流行。物質から情報の世界へ。タンジブルからインタンジブルへ。

それを良いものだと思っていたし、推奨されているのはもう分かっている。この波に乗らないと正直生活はやっていけないし、ネット弱者から順番に社会の一員というタグを外されていく。(例えば、老人がキャッシュレス決済についてレジに聞いて嫌な顔されたという記事を見て結構つらい。その人はレジに聞くしかなかったのだろうし、嫌な顔するレジの気持ちもわかる。その仕組みを私はどうにもできない。)

 

・物質のミニマリズムの先に、私は何を見るのだろう。生み出された時間はどこへ向かうのだろう。私服の制服化といって手に取る無地の白黒グレーの当たり障りない服。身軽さを求めて捨てたものたち。バーチャルとリアルが入り混じって、バーチャルから抜けた後に見るリアルの世界の人間臭さに怯えてしまう。この世界は、ひたすら孤独で、暇で、ノイズが多い。だけど私たちは絶対リアルな世界に住んでいて、大切にしないといけないのはいつだって目の前で起こっていることや、あなたのはずで。私たちは身体があるから生きている。精神だけじゃ生きられなかった。身体があるからボロが出る。不自由さに嫌気がさす。さみしくて、孤独で、でもそんな時飛び込むのはあなたの胸がいい。身体性が抜け落ちていく世界で、私の手のひらだけが頼り。 SNSの次はライブストリーミングだと言われているけれど、もう一度物質へ、リアルな重みへ、世界の手触りが今戻ってきますように。

 

・今の社会は、いのちを持つ生き物にとって必須の力をないがしろにするような、人間の力を削り取っていくような流れがあるな。食が豊かになったことで女の価値がふっくらしている体から痩せている体に変わったのは理解できるし(自己管理ができていると見なされるから)、人より少し良くいたいという人間の欲求があるのもわかる。でも老化への恐怖心、良くいたいという競争心を煽り続ける動きは確かにあって、加速している。もはやその渦に取り込まれすぎて気づくこともできなかった。コンプレックスと、止められない肉体の老化は金になる。

人間の力を削り取っていくような流れ、例えば人工知能的な食べ方の勧め。医学、栄養学の情報で、食の制限を体にインストールするような勧め。食べ物や体を数値化し管理することの勧め。数値化。自分や他人をわかりやすいように数値化もしくはタグ付けするような勧め。もうその中でしか関係を築けなくなってしまった。

流動的な世界の中で「点」であろうとすることは、永遠に続く他人との比較に自分を追いやることになる。snsは点の世界だから、(生まれてからここまで歩いて来たその全ての道のりを線というなら、わかりやすい個性を抜き取って並べることは点的)しんどくなる。文脈を無視して要点だけを食べる人たち。点であることを勧められる社会にいる。でも点であることは絶好の消費者(マーケット的に)であるわけで、精神を殺されないためにも線でいたい。私は点から降りるか、点用の自分を用意すると思う。

五感で捉える世界は絶えず変化する。言葉や情報は変化しない。感覚を手放して言葉を使うようになることを「進歩」と考えて来たが、本当にそうか?

筆者の磯野さんは、生きるとは「自分と異なる様々な存在と巡り会い、その出会いに乗り込みながら、互いを作り出すこと」としている。であるならば、「死」とは、変化のない個体であり、点であり、出会いの先の偶然の拒否、世界との関わりの拒否である。

 

 

uo 2019.11.27