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あやちゃん

クロワッサン

「クロワッサン」(音声が聞けます)/鮃

 

1 鈴木

クロワッサンが好きだ。あのたくさんの層の重なりとか、剥がれた薄い一枚の膜を食べる時の悪いことしてる感じとか、あの鼻が溶けそうなほどのバターの甘い匂いとか、あのしゃくしゃくと噛む音とか。朝ごはんは私だけ毎日クロワッサンにしてもらっているし、もちろんクロワッサンサークルに入っている。休日は美味しいクロワッサンを求めて街を歩き回り、夕方は買ったばかりのクロワッサンをスケッチする。クロワッサンが好きだ。
昨日の家庭科の授業のことだった。あと数分で終業ベルがなるという時、先生が教壇の上からにっこり言った。「来週の調理実習ではパンを作ります。それぞれ何を作るか、考えてきてね。」
それからというものの、クラスは「何パンを作るか」という話でもちきりだった。何かにつけて調理実習の話があがった。私もその盛り上がりの中の一人だった。だって、それぞれが自分の好きなパンを作っていいのだという。わくわくする。もちろん何を作るかは決まっていた。固く揺るがない想いがあった。ああ来週が、待ち遠しい。
放課後の帰り道で、私は男子二人と圭ちゃんに聞いてみた。この三人は同じ通学路なのである。
「ねえ来週のさー、調理実習さー、みんななに作るのー」
「俺はメロンパン」
「俺もメロンパン」
「私もメロンパン」
私は目を丸くした。
「え、なに。圭ちゃんも?みんなメロンパンなの」
圭ちゃんがこっくり頷いた。男子の片方が、手に持っている網に入ったサッカーボールを器用に蹴りながら言う。
「やー簡単だからさー。なんかーメロンパンってえ、ビスケット生地に模様かいてえ、ロールパンにくっつけるんだってさ。すごくない?それでメロンパンできんだぜ。ま、一番好きって訳じゃないけどさ、まあさ、簡単だからさー」
「えー」
サッカーボールは男子のつま先の中心を外れた。彼は蹴るのをやめてしまった。
「鈴木は?」
「私?」
「まあ聞かなくてもわかるけどな」
「何それー。聞いてよー」
圭ちゃんは男子の手からさっとボールが入った網を奪った。
「今日遊ぶ人!」
「はい!」
「はい!」
腕時計を確認すると、後20分で17時だった。
「あ、ごめん帰るわ」
「えー!」
「この後クロワッサンサークルあるからさ」
三人が呆れた顔をした。
「出たよクロワッサンやろう」
「クロワッサン馬鹿」
「ほんとすきだよね」
私は野次を背中で聞きながら、みんなと反対方向へ走っていった。
「ほんとにすきなんだぜー!」

クロワッサンサークル、と書かれた扉を開くと、もうすでにメンバーは揃っていた。エプロンまで着けて車座になっている。
「遅いよ。バターが溶ける」
と、メガネで赤チェックエプロンの牧田は、キビしく言う。
そう、ここは本物のクロワッサン好きだけが集うサークルなのだ、皆、クロワッサンを愛で、作る為に、集まっている。目的はクロワッサン。そこらへんの仲良しこよしの飲みサーとは訳が違うのだ。メンバーは部長・相沢と、副部長・牧田、私鈴木の三人である。私たちは別々の学校に通っているが、週に三回、こうして集まってはクロワッサンを作っている。
クロワッサンはパンの中でも難易度が高い。バターが溶けないようにせっせと手を動かさなければならないし、生地の柔らかさにも注意を払わなければいけない。でもその難しさが楽しく、このやりがいこそが至福の一つであった。
「来週さ、」と私は生地をバターに織り込みながら話した。
「うん」と相沢が相槌を打った。
「調理実習でクロワッサン作れるかも」
「へえ」
「なんか先生が」
「うん」
「好きなパン作っていいって言って」
「いいじゃん」
「一人でできるかな」
「できるっしょ」
相沢は体温を下げるために、両手を氷水に浸けている。
「いいなー。うちのがっこもそういうのあればいいのに」
そうこうしているうちに成型された生地が出来上がり、オーブンに放り込まれ、数分経つと部屋は濃いバターの匂いでいっぱいになった。
「ああこうして待ってる時間って最高だよねえ」
「だよねえ」
「そういえば来月のクロワッサン教室の話だけどさ」
「ああ!えっと高円寺だよね」
「やっぱ場所変更する。お金ないし。いつもの吉祥寺んとこでやる」
「はいはい。了解」
ふと、牧田が「あのさ」と言った。そこで初めて、今日の彼女はあまりしゃべっていなかったことに気がついた。
「私、来週でこのサークル辞めるわ」

 

 

2 相沢

牧田の言葉はびっくりしたけれど、でも分かるような気がした。あたしたちはいつもより少し早く解散した。何かから逃げるみたいに。
あたしは一人だけ電車通学なので、二人とは駅前で別れることになる。いつも寂しいと思うが、今日だけは都合がいいと思った。
ホームに滑り込んだ電車に乗る。空いていたので遠慮なく座ることができる。ポケットを探って、スマホを取り出す。彼女のあの言葉で、やろうやろうと先延ばしにしていたことが、今できる気がした。画面に人差し指を滑らせ、ブラウザを開く。
みんなに秘密で、家庭教師のバイトを始めていた。今のレストランより時給が良いという理由だけで応募したこの仕事は、でも、想像以上に「社会」の仕事だった。というのも、服装は完全ビジネススーツで、きちんとしたマニュアルがあり、爽やかで快活な、理想の大人を演じることが求められた。その一環としてまず手始めに、ネット上から本名を消すことを言われた。顧客への信頼が命のこの仕事は、プライベートを守ることに徹しなければいけなかった。もし万が一、生徒に本名を検索されてヒットしたら、そのヒットした内容が保護者の不安を煽るものだったら、ということらしい。
人差し指を滑らせ、書いていたいくつかのブログの設定を開く。名前の欄の「相沢夏帆」の四文字を、タタタと消す。snsのアカウントに鍵をかける。ネットの海から名前が消えていく。消えるのはほんの一瞬だ。あたしは透明になっていく。勢いで通販のサイトを開く。冬用のスーツ一式と、ストッキング3足セットと、黒いビジネスカバンを、人差し指で購入する。そうだ、明るい髪も黒に染め直さなくちゃ。
透明に、透明になっていく。
電車を降りると、まだ少し明るいとさえ思えるような22時の夜の下をひとりで歩いた。そうだ、今日は早く解散したんだった。近くの海まで歩こうと思った。 私はぶらぶらとだらしない歩き方をしながら、男に電話をかけた。
「もしもし」
『もしもし。え、なに。急に』
「いや別にさ、何か答えが欲しいわけじゃないんだけど、電話したくて」
『なんかあったの』
「現実をみた」
ははは、と電話の向こうの男は笑った。
『相沢』
「ん」
『現実をみるのも大事だよ』
「あんたに言われると傷つくわ」
『現実ねえ……』
「あたしカテキョーやることにしたんだ」
『ふはは』
「スーツもストッキングも買って、今すっげー最悪の気持ち」
『いいじゃん』
「しね」
『あ、そう。クロワッサンは? どうすんの』
「……好きだよ」
『美味しいよね』
「ね」
『サクサクでねー』
小さく、深呼吸する。
「あたしはさ」
『うん』
「今まで現実しか見てこなかったよ」
『おう』
「全部現実のものとしてやってきたし、それは夢だとは思わなかったけど」
『おう』
「それから少しでも離れた瞬間、夢として扱っている自分に気づいて、それがショックで」
『おう』
「夢なんてないのに。始めっから現実しかこの世にはないのに、向き合ってきたのは現実なのに、夢は夢じゃなかったのに」
『……あー。ねえ』
「え?」
『今、海?』
「そうだよ」
『波の音が聞こえる』
「うん」

 

 

3 牧田

「私、来週でこのサークル辞めるわ。それでクロワッサンじゃなくて、あんぱん作ることにする。ごめん」
と言ったら、相沢と鈴木は口をあんぱんの「あ」の形に開けて、まるで時間が止まったようだった。
「ちょっと路線外れるけど、クロワッサンの知識活かせるし、あんぱん作りながらもクロワッサンは作れると思って。で、本格的にあんぱん学ぼうと思ってあんぱんの師匠に教わることになったから時間的にもこっちに来ることができない、みたいな。ごめん。でもクロワッサン作り続けるためだから。ごめん。じゃ」
私たち三人は違う学校に通っていたが、偶然にも来週のウチの調理実習もパン作りだった。鈴木には結局言わずじまいだったが、言わなくてよかったのだと思う。来週私はあんぱんを作る。それを言ったら鈴木は悲しむだろう。私はあんぱんを作る。あんぱんを作るのだ。
クロワッサンが好きだ。何よりも好きだ。あのたくさんの層の重なりとか、剥がれた膜を食べる、悪いことしてる感じとか、あのバターの甘い匂いとか、あのしゃくしゃくと噛む音とか。クロワッサンが好きだ。それでも私はあんぱんを作る。
なぜならあんぱん作りは、クロワッサンの知識を生かすことができるから。クロワッサン作りから逃げてるわけじゃない。逃げてなんかない。これはクロワッサン職人への遠回りだけど確実な道だから。何より、そうだ、あんぱんもクロワッサンと同じぐらい好きだから。
でも口に出さずとも私はわかっていた。わかってしまっていることも事実だった。あんぱん職人は安定職として知られていること。仕事の勝ちルートみたいなマニュアルがあるとされること。世間様にいい印象があること。だからあんぱん職人を本当に良い選択だと思って選んだのか自信がない。ただ安心材料として選んだのかもしれない。でも今ではもうよくわからない。
私は、突拍子もなくて素晴らしい考えのようにあんぱん職人を選んだけれど、大量の無意識に動かされただけなのかもしれない。クロワッサンへの想いと、世間体を心配するどうでもいい一部の誰かへ、どちらにもいい顔をできるように、言い訳をして、納得させて。初めから、クロワッサンなんて好きじゃなかった、あんぱんが好きだったのだと思いなおすようにして。いつでも断ち切れるぐらいの想いだったのだと、思いなおすようにして。大人のふりして。いい子ぶって。わからない。わからない。クロワッサンが、

着信音が鳴る。画面にあんぱん師匠の名前が表示される。わからない。どうすればいい。踏み越えてしまった。もうあの岸辺はあんなに遠い。私はひとりで海を漕ぎ進まないといけない。どの方角が正しいのかわからないまま。もうクロワッサンが作れないかもしれないという予感を抱えたまま。クロワッサンが好きなまま。みんなのことが好きなまま。でも私はあんぱんの海へと漕ぎだしてしまったのだ。この電話を取らないわけにはいかない。振り返っては沈んでしまう。このまま。わからないまま。迷ったまま。ひとりのまま。不安を飲み込んだまま。振り返らないまま。笑顔のまま。どうかこの海の向こうに、新しい光がありますようにと。
「はいもしもし、牧田です」

 

 

2018.09.08 鮃