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ぱー
waimai
RisuPon
ぽ
メイ
あやちゃん

口をつぐみたくなる

もっと具体的な話をしろと言われて、では具体的とはコンクリートとか整理整頓とか緑色とか今日の日付とかそういうやつですか? そういうやつであっていますか? 話していて、私たちは一体何について話しているのだろうと不思議になってしまう、道を歩いていて、今どこを歩いているのかと不思議になってしまう、何を食べているんだろう、ここはどこだろう、何に座っているのだろう、何を話しているのだろう、ワールドワイドウェブに何を見ているのだろう、君は誰だろう、そして私は?

世界をわかりやすく、食べやすい大きさに切るために言葉があるのだと気付いた時から、世界は切ることができない大きなひとつの素粒子であり、握ろうとしたら砂になるものになった。なってしまったら、上手いこと変形していた世界がふとした瞬間にボヨヨンと元の姿に戻ってしまうことがあって、今歩いている番地が意味をなさない、コンクリートの道は砂のかたまりが長く続いている足場へ、そして「砂」にも「かたまり」にも「長い」にも「続く」にも「足場」にも「へ」にも意味があるのだとしたら、もうキャパオーバーである、口をかたくつぐんで何も話したくなくなる、「たくさん」はいつでも怖い、少しでいい、片手で握れるぐらいがいい、話の中でどれだけ把握していないことがあるのだろう、取りこぼした思いは全部なかったことにして、握れてるふりするしかない、我にかえったら世界が戻っちゃうから、ボヨヨンって効果音付きで。

具体的と言われている全てのものは、さかのぼれば、全てが等しく、一枚の手紙と時間に分解されませんか。あなたが敬遠する主観的で抽象的な思いに、握ればバラバラになる最小単位の大きな素粒子に、何かへの個人的な好き、嫌い、好き、嫌いが、時間を経て、それになるのではないですか。一本のマフラーも、あの子の名前も、今日の日付も、緑色も、整理整頓もコンクリートも、一枚の手紙へ、それぞれの時間へかえっていく。よく眠れますように、よく分かりますように、光りますように、転ばずにどこまでも歩けますように、あなたが敬遠するあいまいさは全て、個人的で最小単位の大きな祈りだから、分かってくれとは言わないけれど、理論や算数や客観と同じように、感情も国語も主観も同じように尊く思っている。

 

手元だけ見ている それに言葉を
誰かに急かされるように 今日は冬
風上に 置いて 手紙 白い
たらら そこに 見ようとする
赤いライター 火は青くて
しもやけがひどい足先に 緊張 近況は良くなくて
たらら 聞いたことがある 目で舐めたことがある かざしたことがある
季節が 階段を登るように Tの文字を なぞることを 厭わないで
さざ波 小石 こきざみに どこかの花の色と似た紫をしている 妻の指
地図上にあった サンゴ 干からびた 打ち上げられたひとで
ここにあるのは なに
ぼくたちは なんの話をしている
ここに なにをみるの
糸のもとは きっと細かくてばらばらの見えない手紙へ
より合わせた糸で ぼくたちは

 

鮃 2019/02/19