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ぱー
waimai
RisuPon
ぽ
メイ
あやちゃん

飽きれるほどの諷喩に晴れ

役者ってこんなにつらかったっけ、しんどかったっけ、もう本当に、できないし、できないことが恥ずかしくて恥ずかしくて苦しい。自分に与えられた役のニュアンスは分かるけれど、実像として見えないから、再現しようがない。他の人はできてるのに自分だけができないっていう状態、を何度も稽古で思い知らされて恥ずかしくて、こんなに頑張っているのにって言葉も出ないほど下手だから、自分にブチギレしてしまう。

 

演じるということは人の前で夢を見ることと似ているなと思った。夢といっても眠っている時みる夢のほう。人の前で眠って、よだれ垂らしながら夢を見ている自分の姿を第三者に見せることと似ている。眠った無防備な姿で、とても傷つきやすいまっさらにならないと舞台の上で生きれない。普段なら難なくできる、作品と自分を切り離して考えて自分を守ることもできない、役者は作品がそのまま自分だからどこにも逃げ場がない。他人の感想は良いも悪いもダイレクトに刺さるから、できるだけ知りたくないし、自分の判断は自分でさせて欲しいけど、演技の幅が狭まるしわがままも言ってられないので適当に聞く。舞台の上で、起きている自分をどれだけ捨てて眠りこけることができるか、終演して目を覚ました時に「寝顔不細工だったよ」と言われても、キレずにそうでしたかと言えるかどうか。(そういえば歌舞伎の大向こうからの掛け声は役者の屋号だという文化、すごいことだなと思う。それってつまり、役を演じている時に「平野!」って観客席から声がかかるってことでしょう。私だったら一瞬で目が覚めて客席に歩み寄って、一発ぶってしまいそう。西洋的な感覚では信じられないけど、それが了解されている芸能、歌舞伎……。)

 

数える程だった観劇経験が、だんだん見るようになって増えてきて、そこで観客の不自由を思った。舞台が始まってしまえば、終わるまで立ち上がることができず、目の前で起こる出来事を一方的に受けることしかできない。反論も一時停止もできない、なんて不自由な立場なんだろう。その劇が面白いのかもわからない、もしかしたら劇に傷つけられるかもしれないって不安が観客席には必ずあって、その立場の弱さを自覚しなければいけない。安心を削ってまで観に来てくれたから、私もその分だけ精神削って演じたい。観客をいたずらに傷つけたくない。傷つけちゃったら本当に本当にごめん。でも傷つけるかもしれないという責任を負ってまで芝居がやりたいんだ。なんでだろな。

 

あざだらけの両足。本当に最後まで笑えるほどつらかった、けど、多分そう思えるのは、少なくとも今回においては正しい感覚なのかなと思った。喧嘩も3回ぐらいした。真面目に役者やれて楽しかったな。

 

最後に、言葉が自分につけられること、個人的にすごく嬉しいことだなと思った。スーツ着てヒィヒィ言いながら働いている時、何回この言葉たちに励まされたか、一緒になって中指立ててくれたことが心強かったか、反対に穏やかさを与えてくれたか、何かに張り合う力になったか。

 

ありがとうって、誰に言えばいいんだろう。その対象が広すぎて果てがなくて立ち尽くしてしまうけど、ありがとうございました。観に来てくれたたくさんの人、テキストくれた原作者、役者二人、たくましい五人の裏方、先生とか原点になった人とか、めちゃくちゃありがとうございました。卒業式みたいだな。

 

夜ピクはまだまだ続きます。夜の公園でピクニックした時みたいな嬉しさで演劇を作るぞ。また観に来てね。

 

 

(この世はおそらく、多分、きっと。プロバブリー、メイビー、パーハップス、絶対、素晴らしいので。)

 

UO  2019/05/12