画像の説明
ぱー
waimai
RisuPon
ぽ
メイ
あやちゃん

目の前の美しいもののために

年の瀬間際に、急に冬になった。

昼の冬空はすこんと高く、青く、仰ぐのがいちいち嬉しい。そうだ、体育のソフトボールで、打ち上がったフライのボールを目で追ったとき、視界いっぱいに空が飛び込んでくる、あの嬉しさに似ている。清く澄んだ青は、全ての色を際立たせるから、空色に合わせるためだけに真っ白な布団を干してみる。

夜はギンと冷え込み、さらに空気が澄む。普段は月の明るさに埋もれてしまう星が、はっきりと確認できるほどにクリーンになる。紺色の広い布生地に、細かい銀のビーズをこぼしてしまったような。空の端から、それでもひとつひとつ数えてみたい。知らない星と星とを適当に指でつなげたら、新しいわたしの星座ができる。

そして朝が来る。このまま一生明るくならないんじゃないかと不安になるほどの、うす暗い午前7時の外の風景に、一筋の光がさっと差す。それをきっかけに、夜を引きずった紺の空が赤々と染め上げられていく。まだ起きていない静まった街が、端から順番に温度を持つ。冬はつとめて。私も冬は、朝が一番好きだな。

 

今年を振り返ろうと、二日前から何度も、何かを書いては消し、書いては消し、画面を文字で埋めては、白紙に戻していました。本当に私にとってありがたい一年だったので、バカ真面目すぎるほど丁寧に文字に起こしたくて、だけど口が上手くなってしまったというある意味良くない成長のせいで、パソコンに打たれる言葉は、読み返してみたら何ひとつ誠実じゃないんだ。例えばある思い出について書いたとして、でも本当に胸の中にある曖昧な感情と、文章としてわかりやすい感情表現の差異にドキっとするような。言葉を重ねても重ねても、確かな思い出は遠のいていきます。

でも書けないにしても、今年最後の更新はしたいので、この文章は自分に与えた最後のチャンスにする。気に入らなくても消さないで気合いで書き切るぞ。waimaiに並んで、雑記っていうか、内省的なものになるので読みたい人だけ読んでください。

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掃除をしていたら、今年の7月4日の日記を発見した。日記帳に折り目正しく記録できない私は、適当なノートや紙ぺらの端に日記を書いて、そこだけ破って本棚に雑に挟んでしまう。だからこうして思わぬタイミングでいつかの記録を発見することになる。

 

「だから何?」「それで結局何がやりたいわけ?」「何を言いたかったわけ?」「何を伝えたかったわけ?」「何が分かって、何が分からなかったわけ?」
いつもここでつまずく、堂々巡りだ。私は本当に何がしたいんだろう。何も、何もできなかったな。
好きだからやった。こういうこと、してみたかったからやった。それでいいのかな。おもしろかった。ここが好きだと思った。それでいいのかな。
私たちは何を目指しているのか。作品を作って、それで、何?
これからどうやってお金をかせいでいけばいいのか分からない。皆はこの問題にどう向き合っているのか? 同じように悩んでいるのか? それとも目をつぶって作品を進め続けるのか? ふと立ち止まった時にこれらが私を襲って、たった5分の休みのはずが、1日も2日も立ち止まっている。未来が見えない。
感情というものに限界を感じる。私というものに限界を感じる。ずっと遠くの未来が見えない。人に伝えたいものなど、とっくの昔に故人が言ってる。ではなぜ私たちは同じことを繰り返すのか?
だから私は近くの目標を立てる。できるだけプロセス立てて。ストーリーは後付けで。でないと、怖いから。物語を書くと、「で、だから何?」と自問してしまうから。なぜ美術はあるの? 何のため? 心を豊かにするため? 感性を磨くため? ……なんかいまいちしっくりこない。腑に落ちない。考えると、あまりに遠くて眠くなる。考えないようにすること、それが正しいのか? 「だから何?」どうして生きているのか、その答えをずっと探している。この問いは果てがしないし、答えられない。どうすればいい。 2018.07.04

 

この日記の内容のようなことを、今年はずーっと考えていた。それで、その答えを探しに色んなところへ出向いた。

関西に住み込みで働きに行ったり、ひとりで旅行に行ったりした。自分の居場所を探していたという理由も一つあった。眠るのはどこででもできた、でも起きていても目線に困らずに深く呼吸ができるような、そんな居場所を探していた。それは少なくとも「ここ」ではなくて、違う場所にあるのだと信じていた。最後に帰るのは私自身であることを踏まえ、私は私の力と能力を信頼し、一生孤独であると強く自覚し、それならば完成した世界の中にいる私が、目を開けていられる場所を見つけてみたかった。それで旅行に行き始めた。少なくとも「ここ」にはないと思っていたから。

ゆく先々でわたしは体調を崩した。住み込みで働いていた夏は、今までになく体調不良になった。労働時間以外はほぼ眠っていた。ご飯の時と、図書館に行く時だけ目が開いていた。あとは夕方の5時に寝て、9時に起きた。ふらふらと旅行へ行っても、風景はただの風景だった。いつもとは少し違うけれど、でもそれだけである何かとしか目に映らなかった。これはまったくの予想外のことだった。打ちのめされた。

このあと、「やっぱり私の居場所は『ここ』にしかなかったんだ!みんな大好き!」と結論づけるのはあまりにも浅はか&バカ&飛躍しすぎである。そういうことではない。

たどり着いたのは、目の前の道は暗く、はるか遠くに見える場所は輝いて見えるということだった。例えば、人類というカテゴリーを深く愛していても、隣の個人は愛せない人間がいるように。

 

 

 

話は変わるけれど、

私は「夜のピクニック」というユニットのメンバーで、この人たちのことを本当に好いている。
まさに上記した「隣の個人」で、人と真面目に話すとこんなに疲れるんだって初めて知った。会話ではなく、対話する体力がついた。相手を尊敬しているからこそ批評すること、されることを恐れてはいけないのだと思った。まっすぐに見つめてくれる相手のためにも、一本通した自分でありたいと、初めて思った。肩を借りることを怖がらないようになった。手を繋ぎたい時に繋げる勇気が、会いたい時に会える勇気が出た。

でも、期待することが苦手になった。ある時ゼミの先生に 、「きっと臆病なんだね」と言われた時、びっくりした。むしろ強気な性格として通ってきたのに、人生で初めて臆病と言われた。確かに、振り返ると私はずいぶん怖がりになっていた。前はもっと純粋に自分や相手に期待していた。期待はずれに悲しくなってもすぐ立ち直り、失敗を学ばずにまた繰り返し期待を寄せるような人間だった。私は良くも悪くも慎重になった。失速した。廊下は歩くようになった。地図を持って進むことを覚えた。良くなったこともあるけれど、でもこれは、自分に期待して自分に裏切られるのが怖くて覚えた技なのだった。

でも半ば、前のように期待したいと思っている。心から期待したいと。初めて舞台に上がった時の高揚感、戯曲が書きあがった時に妄想するあの子のニヤリとした顔、ライトの下のばらばらになってしまいそうな視線の衝突、胸が散り散りになった数え切れない瞬間を心の支えにしてきたのだ、私たくさんもらったんだ。ねえもし、例えばもし、先のことなんか考えずに、爆発できるのが私なのだとしたら、3歳児のようなまっすぐさで、何かを期待できるのが私なのだとしたら。私は今すぐ、半端に手に入れたこの正しさをぶち壊そうと思う。私は私の役割を果たさないといけないから。

私は誰かに会いたいから演劇をします。私は考えたいから演劇をします。私は美しいものを見たいから演劇をします。私は世界を見せたいから演劇をします。

一緒にいてくれて、走ってくれて、まっすぐに見てくれて、隣にいてくれて、ありがとう。本当にありがとう。

 

 

あと2時間で年が変わるね。ああ本当に、心から楽しい一年でした、たくさんの出会いがありました、やりたいことやれました。最高だった。

最後に大好きなハバナイのblood on the mosh pitと言う最高の音楽を載せます。今年はこれをよく聞いてたし、こんな年だった。
来年もブチ上がってこうな。

 

 

 

そして、今年もゴールデンレコード読んでくださった方(なお宇宙人を含める)、本当にありがとうございました!来年もよろしくお願いします。

 

ではでは、みなさま良いお年をお迎えください。

 

 

2018.12.31 鮃