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あやちゃん

諦めたもの、諦めたくないもの

美術は孤独のためにあると思う。誰しもがひとりの時間を、自分以外の人間と共有することはできない。思い切って誰かに話しても、ひとりの時の悲しみや嬉しさは誰か用の言葉に変換されてしまって、違うこんなこと思ってたわけじゃないのにと、剥がれ落ちていったニュアンスの全てを思う。どうやったってひとりの私にはひとりで会うしかない。楽しく別れた後の自転車の帰り道を、寝落ちする瞬間まで握っていたスマホの熱のさみしさを、コンビニで大量の食物を目の前にした時の呆然と立ち尽くしてしまう感じを、誰とも共有したことはない。でも絵や彫刻、演劇や映画などの作品を見ている時は、誰もがその時間はひとりになると思う。例えば友人が隣のシートに座っていても開演してしまえば、当たり前だけど友人は私ではないから、私対作品という関係性が生まれる。その時やっと自分以外のものと孤独を共有した気がして、または、ひとりでいることを公式に認められた気がして安心する。そして終演後に人の感想を聞いて、ああこの人もひとりだったんだなって気付く。美術というくくりも、鑑賞側がひとりになれるという見解も個人的なものだけど。気持ちの明るさ暗さに関係なく、誰ものひとりにやさしくあれる作品を作りたい。

 

「波長があう」という言葉はよくできているなと思う。ものには、関係には、人には、もちろん自分にも、それぞれの周波数(もしくは振動数)があって、私たちは知らず知らずのうちに自分と似た周波数のものを集めている。いやもしかしたら、自分の周波数は集めたものの平均値なのかもしれない。とにかく現状、波長があうものに囲まれているような気は確かにする。
では、自分とはるかに違う振動数に憧れたらどうすればいいのだろうか。私はたまたましっくりくる媒体が演劇で、それを叶えられる環境と時間に偶然いるから、演劇をやっている。今は。もしかしたら明日になったらもう好きじゃなくなっているかもしれない、別のものを好きになって、そっちの方が才も波長もあったら、ってことをはじめて考えた。(ムカつくな。)でも、私がどれだけ頑張っても、さわれない周波数というものが世にはあるから。先生がなんども言うけど、関係が悪くなっても、それは関係自体が悪いだけで、あなたと私が悪いわけではない、という話。もし出会う場所や時間や体調が違っていたら良い関係だったかもしれなくて、その環境でその関係があったことは、でも縁でしかなくて、しょうがない。しょうがないから、クソ腹たつな。

誰かひとりに、ひとつの関係に、ひとつの私の出来る事に、期待も依存もしない生き方を学んだ。知ってはいたが、今までしてこなかった。強くまっすぐに期待して、それがうまくいかなくて倒れても、怪我をしないように守ってくれる環境があったから、する必要がなかった。でももう分からない。生活はずっとピュアではいられない。生き延びたいのなら、もっと賢く、強くならなければいけない。戦に勝つためには、軍の数と知恵が必要だが、なんせ私の軍は一生を通して常に少なめだろう、ひとりでも真っ当に戦えるように鍛える必要がある。私はまだ諦めない。

起承転結の、「転」、何か事件が起こって流れが変わり、結びへと続く三番目の「転」。人生を推し進めてくれたり、新しい世界を見せてくれるいい人、に会えればいいね、と言った時、あなたにはそれを言われたくない、と返されたことがあって、その時は全然分からなかったその人のしんどさを今さら理解した。いい人に会えればいいね、ということは、(私はあなたにとっていい人ではなかったけれど)の裏返しなんだな。じゃあもう一生さようならしたくないし、最後はどうやって卒業するんだろうか。どうしても信じたい縁がある、無理やりチューニングして、周波数をごまかしてまで一緒にいたい人たちがいる。どこかにいい人いないかな、のいい人が私だったらいいのに。でもそれでもさよならなら、どうかいい人に会ってくれ。私はあなたにとって縁がなかったけれど、それは本当に残念だけど悔しいけれど、何で私じゃなかったんだってまあ正直なとこ思うけど、私より最高の人に出会えればいいなと心の底から願うよ。

 

 

uo 2019.05.27