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あやちゃん

雑記 0228

1 コンタクト

コンタクトを初めて作りにいった。

私は視力が悪い。メガネを持っているが、イヤリングのように無くしてしまうし、走ったら落ちるしでその儚さが嫌いだった。(私の生活において物体感がないというのはかなり重要視される。)授業時に気まぐれにかけるだけで、普段は引き出しの中で眠らせている。だからいつも視力0.1の裸眼で過ごしていた。風景は多くのものが見えないような気がしていたが、問題はなかった。

特にきっかけはなかった。景色をもっと鮮明に見たいという願望もなかった。全ては気まぐれだった。バイト前に時間があったから眼科へ向かっただけだ。だがコンタクトには興味はないものの、「コンタクトを外すのを忘れて眠る人」にはずっと憧れがあった。今はそんなバカなことしたら網膜がおかしくなることを知っているが、その言葉の持つ甘やかな夜の雰囲気について、昔はもっと真面目に妄想していた。(……おそらく「コンタクトを外すのを忘れて眠る人」は若い女の子だ。20代になったばかりの彼女はサークル友達と家で麻雀をしている。半分眠りながらの麻雀は朝の5時まで続き、ふと揺すられて目を開けると自分が深く眠っていたことに気づいた。もうお昼頃らしい。揺すった相手は、牌片すの手伝って、とぼんやりした声で呟いて奥へ引っ込んでしまう。彼女は頷いたあと、大きな伸びをして言うのだ。「コンタクトを外さないで寝ちゃった」春っぽい柔らかな風が開け放った窓からなだれ込んできた……)

とりあえず近くの眼科へ向かう。問診票を提出して視力検査を終え、待合室のベンチに座っていた。まもなくして名前が呼ばれ、スライド式のドアを開けて診察室へ足を踏み入れた。

眼科の診察室はなぜどこも、こんな風に薄暗いのだろう。数ある個室(自分の部屋や電車のトイレ、会社の休憩室などあらゆる部屋)の中でも眼科の診察室はかなりヘンな部屋だと思う。一歩踏み込んだら眼科にきていることを忘れる。小さなデスクライトだけが点いている。銀のトレーに器具が静かに並んでいる。そして一つだけある椅子には、人生の中ボス(決して最終ボスではないところがポイントだ)みたいな人間が座っているものだ。

一歩踏み込むと、白衣を着こなして背筋をピンと張らせた中年の女性が私を待ち構えていた。化粧っ気のない顔に、意志の強そうな目をしていた。彼女は私のカルテに目を通した後、目の検査をするより先に、「あのねえ」と言った。想像通りのハリのある声だった。

あのねえ、あなた。めがねを御しなさい。はあ、なぜこの視力でこの歳になってまで何もしないできたのかしら。あのねえ、あなた。視覚というのは情報の80パーセントを占めるのよ。だというのに、毎日あなたの世界は写真でいうピンボケよ。これじゃあ社会参加もしているのかしていないのか、分からないわね。霞んだ視界で、あなたはいくつの大事なものを見落としてきたのでしょうね。

あまりに嫌味なくさらりと言うので、思わず聞きこんでしまった。満足に言い返す間も無く、白衣の彼女は私の眼球にライトを当てて異常がないことを確認すると、「あなた良い目ね」と満足げに言って待合室に追いやった。眼科の奥の暗い診察室には、どうして人生の中ボスみたいな人が座っているのだろう。でも決して最終ボスではないところがポイントだ。

「霞んだ視界で、あなたはいくつの大事なものを見落としてきたのでしょうね」

初めてコンタクトを使うので、装着方法のレクチャーを受ける必要があった。教えてくれたのは腰の柔らかい若い女の人だった。私たちは窓際の洗面台の前に座った。

「まず手を洗って」「はい」「底に押し付けないようにそっとすくう」「はい」「横から見て、縁が反っているのが裏ね」「これ裏だ」「じゃあ反対に裏返してみて」「はい」「それに薬を一滴垂らして」「はい」「人差し指に乗せて、中指でまぶたを押し広げて」「はい」「鏡をよく見て」「はい」「黒目の真ん中に置くように」「失敗しました」「もう一回濡らして、そっと」「できた」「黒目を左右上下に動かして、空気を抜いて」「はい」「下を向きながらゆっくり瞬きする」「はい」「もう反対側も」

目をそろそろと開けると、女の人の顔が飛び込んできた。

「どう?」
「良い感じです」
「ゴロゴロしない?」
「全然」
「よかった。それ最新だもの」
「あの、」

一応聞いておこうと思った。「コンタクト外し忘れて眠るのって大丈夫ですか」

「絶対ダメ」
「……もし眠ったらどうなるんですか」
「目の表面とコンタクトがくっついて、一緒に剥がれる」
「なるほど」

 

コンタクトというものにすぐに夢中になった。眼科を踏み出た時から嬉しかった。目が見えるってこんなに素晴らしいことだったんだ、と満面の笑みで帰り道を闊歩した。あの中ボスの言っていることは正しいのかもしれないと不安になるぐらいには、遠くのものが見える、色がはっきりと見える、輪郭がわかる、ものには立体感がある。情報過多で倒れてしまいそうなぐらい、色々なものが見える。見えすぎるほどに見える。これまでは現実より写真の方が鮮やかだったけれど、いやむしろ現実以外に高画質なものはないのだと思った。もう一度生まれ直したみたいだ。小さい頃の視界の鮮やかさを得たのだ、この目で早く好きな人たちの顔を見たいと思った。

乗り込んだ電車には夕日が差していた。つり革に捕まって、車窓を眺めた。日が落ちていくときの空のグラデーションと、焼却炉の煙突から伸びる煙の輪郭が美しかった。目を車内に移しても色々な発見があった。少し頑張れば二両先の車内の様子まで見えた。人は思った以上に薬指に指輪を光らせていることを知った。そして思った以上に微笑んでいる人間が多いことを知った。

帰宅してすぐ、鏡の前に立った。生まれて初めてのように自分の顔を眺めた。想像以上にそばかすが散っていて笑った(年々薄くなっていると感じていたのは気のせいで、ただ目が悪くなっていただけだった)。自分についてはそばかす以外の感想は出てこなかったが、ただ眼だけは、いつもよりぴかぴかしているように感じた。少年の顔みたいだと思った。

 

2019.02.28 鮃