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ぱー
waimai
RisuPon
ぽ
メイ
あやちゃん

いっそウンコを投げたい

 

人に嫌われたいと思っていた時期がある。

この先付き合う人を選べるとして、自分とは交わる事が出来ないであろう人たちと関わる事で起こる精神の磨耗が面倒くさくなってしまった時期のことだ。
実際、嫌われたいと言う気持ちを行動に移してしまったのだが、超平和主義なので不良の様に喧嘩を売ったりしない。ゴリラの様にうんこを投げたりもしない。決して攻撃的にはならない。ただ、
「嫌われたい」と念じ続けるのだ。
ある一定の層に嫌われたいと思った時、そしてその層が自分の生活圏に於いて大多数だった場合、この念は通用するのだ。うんこを投げるまでもない。
「嫌われたい」と言う念は「好かれる必要がない」に変換され脳を支配する。人の目がどうでもよくなる。社会性が死滅する。奇行を厭わなくなる。つまりジユウになるのだ。
こうして中高生時代を、社会性や協調性を身につける貴重な時間を無に帰してしまった。

それから一年以上経った頃、自分と正反対の人間に出会った。数年前だったら極力避けていた、“絶対に交われない人”だ。誰に対しても人当たりが良い“出来る人間”であるその人は多分、「大人」だと思う。「おとな」でも「オトナ」でもない、漢字で書く「大人」。少しの愛嬌で小さくフリガナが振ってあったかもしれない。非の打ち所がなく、直視したら瞬間的に両の目が溶ける程眩しく、その温かさに誰もが付いて行くであろう人だった。
けれどその人の、時折垣間見える冷たさがどうしようもなく引っかかっていた。しばらく会っていないその人の事をふと思い出した。あの冷たさは、ジリジリと暑い日に冷えたコンクリートの壁にひたりと触れる様な心地良さだったのだと思った。
きっとあの人が大人で居られるのは、あのコンクリートの壁があるからなのだ。普段は柔らかい、毛布か何かで覆っている壁のその全貌は見えない。けれどもあの壁が、塊が、箱がなければその周りの暖かな毛布は、その輪郭を保つことが出来ない。

 

人の目を見る事が苦手だ。

一瞬合わせた目はすぐに泳ぐ。無理だ と確信する。「無理」な人がいる「大丈夫」な人がいる。オトナと呼ばれる人達とどうやら目を合わす事が出来ない。彼らは知っている。誰に、どんな人に、いつ、どうやって、どの自分の側面を見せれば良いのか知っている。そしてそれは彼らの「コンクリートの壁」を巧妙に隠す。触れることは出来ない。冷たく心地良いのかも、コンクリートなのかも、どんな形なのかも、絶対に見せてくれない。もしかしたら私のような人間にだけ見せてくれないのかも知れない。私がその人に鉄壁を築くのと同じに。
その人の、にんげんの、一番奥の、柔らかくて硬い部分は一片も見る事が出来ない。生身のにんげんと対峙している感覚が霞んでいく。作られた人型としゃべっている気分になる。瞳の奥の黒が、ずっと奥まで続く空洞みたいで怖くなる。そして目をそらす。ここまでコンマ2秒。気持ち悪くなる。

少し前に、大学内の某科に行って若干揉めた。20分近く話をして居たおっさんの目が見れず、おかげで顔も覚えて居ない。「ここに書いてあるルールの通りなんで」と言った彼をめちゃくちゃ無機質に感じた事だけ覚えている。

 

「名刺の渡し方が….」「これが常識だから」「社会人として」
言われる度に全てどうでもいいと思ってしまう。というか「ずっとこうしてきたから、」的な理由があるもの、逆にそれ以外の理由が無いものに対して私は唾を吐きかけたい。頭を使え、何も考えずにつまらない物を継承しやがって、と先人達を呪う。
そんなもので壁を作るな。何を隠している。「大人」という虚像を見たいんじゃない。「私」は「お前」と対峙したい。どうして隠さなきゃいけない。何故目が死に腐った奴らのために腰を折り続けなければいけないのだ。受け取る事も考える事も放棄して記号的解釈に踊らされる奴らの為に。
いつまで私達は膝を抱えたままで全方位に中指を立て続けられるのだろうか。
俺たちの戦いはこれからだ。

 

 

2018,07,17 ぱー